うるま市は沖縄県の本島中部に位置する都市で、サンゴの島という意味を持つ沖縄の方言が由来となっています。うるま市では様々な偉人が輩出されているので、歴史に残る偉人をご紹介します。
まず、沖縄のチャップリンと呼ばれた小那覇全孝(舞天)がいます。小那覇全孝は元々歯科医でしたが、プロ顔負けの琉球芸能の達人として知られています。終戦した直後、沖縄を含め日本はどこも荒廃していました。そんな中三線を担いで、家々を訪ね歩いたとされます。せっかく生き残ったのだから元気を出しましょうと、命のお祝いをしたのです。ユーモアや笑いを人々の心に届け、希望を与え続けました。沖縄の伝統芸能を世の中に広め、地域の復興にも多大な影響を与えたと言われています。
次に教育に情熱を注いだ志喜屋孝信という人もいます。志喜屋は沖縄で初となる市立海南中学校の創設に尽力しました。沖縄県の教育の第一人者として知られ、昭和21年には沖縄民政府の初代知事に就任しています。終戦後の沖縄復興の大きな礎にもなりました。昭和27年には琉球大学の初代学長に就任し、数多くの優秀な人材を世の中に送り出しています。琉球大学は沖縄県唯一の国立大学で、「自由と平等・寛容と平和」を建学の理念とします。
それから平敷屋朝敏という和文学者の偉人もいます。平敷屋朝敏は琉球王国に生まれた士族の1人で、和歌や流歌に優れた人物でした。当時、琉球王国は薩摩藩の支配の元にあり、苦難の時代であったと推察されます。子供の頃から心海和尚について和文学を学び始め、和文の物語である「苔の下」「若草物語」「万歳」「貧家記」等を記しています。恋物語を多く書いたので、琉球の業平と呼ばれることもありました。また、平敷屋朝敏は、組踊の演目である「手水の縁」の作者としても知られます。
組踊は沖縄の伝統芸能の1つです。「手水の縁」は、島尻の波平大主の子である山戸と知念山口の盛小屋の一人娘玉津との恋を描いた物語になります。そして平敷屋朝敏は、水不足に苦しめられている農民のために溜池を掘削してもいます。掘り起こして築いたのが「勝連・平敷屋タキノー」です。士族という身分にありながらも、農民など立場の弱い人達の心に寄り添った人物でもありました。しかし、1734年に国家の御難題を企んだとして王府高官であった友寄安乗と共に磔の刑にされてしまいます。これは「平敷屋・友寄事件」と呼ばれ、子供も島流しとなったのです。